梅はじっくり・・・(追記) [ワガヤの庭]
2024年4月26日(金)その3 天気予報通りならば、今日の札幌は日中の最高気温が25度超え!だってハズ。しかしなんですよ・・10日前にエンゴサク・パトロールに出てからは曇りで寒い日が続き、一旦消した我が家のストーブも再点火されたままでした。20日(土)の夕刻、私的なお祝いの会に出席の際、チョット余裕こいて会場最寄り地下鉄駅の2つ前で降りて、街中を歩いたのですが、とにかく寒かったです。雪ではなく小雨でしたが、風が結構強烈でした。コートのフードをしっかり被り、手袋もはいて・・というイデタチになりました。
19日(金)
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フジタ工業の植木選手 [懐かしもの]
2024年4月26日(金)その2 笠谷幸生さんの訃報に接し日の丸飛行隊の思い出などを書きましたが、2週間ほど前には、ベルマーレ平塚などの監督を歴任された植木繁晴さんがお亡くなりになったことも報じられていました。私の古い記憶で、天皇杯?の決勝だったと思うのですが、途中出場してきた(という記憶)フジタ工業の大卒新人の植木選手がヘッドで豪快に得点したシーンが何故かず~っと記憶に残っています。そのころ「ヤングおー!おー!」などでよく見ていた「オール阪神・巨人」の巨人さんに似ているゴツい選手だなあ・・と思っていたことなどが記憶に残っていた理由だと思うのですが・・・ 最近は記憶も怪しいのでチョット調べてみました。植木さんは1977年に日本大学からフジタ工業に入社。フジタ工業は翌1978年元旦の天皇杯決勝でヤンマーを4対1で下して優勝していることがわかりました。なるほど、このへんは間違いなさそうです。しかし、この決勝での出場選手、選手交代や得点者まではネット検索では確認できませんでした。若かりし頃の写真は選手名鑑に掲載されたものを見つけましたが、巨人師匠と似ている感じではありませんでした・・あっ、でも巨人師匠も若い頃だからな・・と思い返して探してみると⇒この頃?ならちょっと似てたのかなあ?植木さんの新人の頃の写真を見てみたいです。 しかし、あの当時は元旦の天皇杯決勝よりも成人の日のラグビー日本選手権の決勝のほうが人気あったよなあ・・新日鉄釜石全盛期始まりの頃ですよね。サッカー天皇杯の解説は岡野俊一郎さんの印象が強いのですが、その当時もそうだったのだろうか?どうでもいいですが、その後おじさんになった私は上野の岡埜栄泉に豆大福を買いにうかがいましたよ。 あ~スイッチ少し入り始めました。なんででしょう・・昨晩延長にもつれ込んだ五輪予選兼U23アジア杯でイライラさせられ、睡眠時間を削られたせいでしょうか? 遅ればせながら合掌 おじゃがす
日の丸飛行隊・・ [懐かしもの]
2024年4月26日(金) 寝ぼけ眼で朝刊の一面を眺めていて、びっくりしました・・・
朝日には掲載がありませんでしたが、道新は1面でその訃報を伝えています。
社会面にも大きく・・・
もちろん、スポーツ面にも・・
札幌オリンピックの頃には私は札幌にはおりませんでしたが、家人はいくつかの競技会場に足を運んでいるようで、いろいろ話も聞いたことがあります。札幌には居住していませんでしたが、日の丸飛行隊の金・銀・銅の独占は日本中が興奮したと思いますし、今も強く記憶に残っています! 当時は小学校でもその話題で持ちきりでした。教室では机2つ並べてそこに両手を置きスタートする真似とか皆んなやってましたよ(笑)。 当時は今のベンチみたいなところに座った状態からのスタートとは異なり、横から斜めに飛び出して姿勢を整えながら滑り降りてましたし、滑っている時の両手は後ろでなく前に構えていました。もちろん、まだV字ジャンプとかなかったですし、選手もヘルメットでなくニット帽?を被って飛んでました。
しかし、変わったのはスタイルだけではなく、選手の所属先も・・・笠谷、今野、青地各選手の所属先は、ニッカウヰスキー、たくぎん、雪印でした。当時は北海道を代表する企業だったのだと思いますが、ご存知のようにニッカはアサヒビールに吸収され、たくぎんは倒産し北洋銀行に吸収、雪印も不祥事でばらばらになり、ブランド名としてのみ残っているだけです(ジャンプチームは雪印メグミルクとして存続)。そのほか、当時有力選手の所属していた地崎産業も同様な経過をたどっています。時代の流れを感じずに入られません。 合掌・・・ おじゃがす